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安藤昌益と千住宿の関係を調べる会は、通称「調べる会」といいます。

TEL. 03-3887-8021

〒123-0852 東京都足立区関原2−14−20−105 矢内信悟方

千住宿とは

 千住宿があった足立区は、東京都の北東部に位置して周りが河川で囲まれているのが特色の一つです。北は毛長川、綾瀬川、垳川を境に埼玉県草加市、八潮市に、西は新芝川で埼玉県川口市に接し、東は中川と古隅田川で葛飾区、南は隅田川をはさんで北区や、荒川、墨田の各区に接しています。面積は東京23区でも3番目、人口は約68万人と東京23区の中で第4位です

 今から100年前の明治45年(1912)、江北村から荒川堤(今の隅田川)の桜11種類(通称五色桜)の苗木を採取して、日米親善のため東京市長尾崎行雄を通しアメリカへ贈られ、ワシントン・ポトマック河畔に植えらました。現在この桜の並木は3,000本あり、同市の名所の一つとなって全米に親しまれています。今年は100周年の年にあたります。

 千住は足立区の繁華な商業中心の地区です。周りが河川で囲まれた地域で、南に隅田川、北に明治から昭和にかけて開削された荒川(旧名荒川放水路)に囲まれ、輪中地帯です。

 江戸時代は日光道中の初宿、千住宿で日光道中ほか諸街道が通り、江戸の東北方面の交通の要衝になっています。千住大橋を渡る国道4号線が千住宿の西側を通り、最終地青森県を目指しています。現在、鉄道網としてはJR常磐線をはじめ、地下鉄日比谷線、千代田線、私鉄東武線、つくばエクスプレス線、京成電鉄線が乗り入れています。北への交通の要になっています。最近は宿場町の面影も薄れ、北千住駅付近に東京電機大学をはじめ4校の大学が進出し、文教の町、若者の町に変貌しつつあります。

 「千住」の地名はよく見聞すると思いますが、いまひとつよく分からないと思われます。若い方には、武田鉄矢さん主演の「3年B組金八先生」のロケ地として馴染み深いと思います。また、高校生時代、古典の学習で松尾芭蕉の『おくのほそ道』の冒頭、「千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそヽぐ。行春や鳥啼魚の目は泪」というくだりが出てきます。元禄2年(1689)3月16日、芭蕉おくの細道矢立はじめの旅立ちの地「千住」のことですが、この千住です。

 少しタイムスリップして、稿本『自然真営道』が著された江戸時代の千住について要約してみます。千住は武蔵国足立郡に属し、今から400年ほど前の天正18年(1590)徳川家康が関東入府、4年後の文禄3年(1594)荒川(現隅田川)に、最初に大橋が架橋され交通網が整備され始めました。慶長8年(1603)江戸幕府が開かれ、寛永25年(1625)に街道が整備され、江戸四宿(品川、内藤新宿、板橋、千住)のうち日光道中の初宿として千住宿が定められました。参勤交代の制度が確立して、日光道中、奥州道中、水戸佐倉道を利用して千住宿を通過する大名は69家にも上ります。『自然真営道』に関係すると思われる八戸藩(2万石)の参勤交代も千住宿を通過します。なぜ『自然真営道』の稿本が江戸でなく、千住宿に秘蔵されていたかの謎を解く、一つの鍵がここにあるように考えられます。

 江戸時代、千住宿は北への出口で、日光道中、奥州道中、水戸佐倉道、脇街道の下妻道、赤山道等が通り、荒川に千住河岸があり、舟運の盛んな物品の集積地であり、江戸の台所を担う関東の農産物の出荷地、通称「北山」と呼ばれる近在農家の農産物を扱う千住青物市場「やっちゃば」があり、また近在農家と江戸の需要を賄う問屋、商家中心の町で、宿場町というより物流基地の性格を帯びていました。

 さらに、江戸に一番近く、あまり規制を好まない文人墨客は、「やっちゃば」や商家の主人より経済的支援を受ける代わりに、俳諧、和歌、書道、茶道、華道、絵画等を教え、千住宿に文化的影響を与えました。

 千住宿は、諸街道を通じての人的交流が盛んで、情報、通信の基地でした。江戸四宿の中でも人口が天保期で1万人と飛び抜けて多く、宿場には医師をはじめ多種多様な職業の人々が暮らしていました。千住の文化は江戸から明治、大正、昭和と連綿と続き、多くの文化人が文化の灯を残しております。これが江戸から千住に伝播された地縁です。文化面を深く掘り下げたところに、『自然真営道』秘蔵の謎を解く第二の鍵があると思います。千住宿はおのずから江戸文化を東北方面に伝え、東北文化を江戸に入れる役割を果たしていたと考えられています。(2012年記)

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